第四章 中国の最初の夜

貨物船が青島港に着いた時、麻子はまず面食らった。
最初に目に入ったものが、あまりにも日本に似ていたからだ。
麻子はてっきり、書物の中で夢見てきたような中国の風景をいきなり目の前にするものと思っていた。古い城門や寺の屋根、牌坊や煉瓦の壁、あるいは一目で日本ではないとわかる空気のかたまりを。ところが現実にそこにあったのは、日本語の看板、和風の屋根、下駄を鳴らす日本人の女、そして銃を背負って行き来する日本兵だった。
足元はたしかに中国の土地なのに、目に映るものだけ見れば、日本の一部がそのまま移ってきたように見えた。
だが、その錯覚は長くは続かなかった。
荷を担ぐ中国人は、兵が来ると無意識に身を引いた。道端で子供の顔を拭いていた女は、軍靴の音が近づくと手を止めた。麻袋を担いだ港の男は、麻子の脇を通る時でさえ、視線を上げなかった。
その時、麻子ははじめてはっきり悟った。
自分の手に銃がなくても、日本語を話し、日本人の顔をして立っているだけで、周りの空気は先に変わるのだと。
上陸してすぐ、役所の机の前で手続きをさせられた。帳面をめくっていた日本人の係は、麻子の荷を運んできた中国人に向かって、顔も上げずに短く命令を飛ばした。運び手の男は汗だくで、もう十分に丁寧に箱を置いていたのに、なお頭を下げていた。麻子は横でそれを見ながら、自分の荷物の重さとは別の重さを急に意識した。
宿舎へ向かう車の窓から見える町も、妙にちぐはぐだった。表通りには日本語の看板が並び、商社や郵便局や酒場が肩を寄せ合っている。けれど一本横へ入ると、干魚の匂いと石壁の湿り気が立ちのぼり、低い家並みのあいだを中国人たちが足早に行き交う。その二つの景色が、無理やり一枚に重ねられているように見えた。
麻子が見入っているのに気づいて、夫について青島へ来たという同乗の若い女が笑った。「はじめて来た人はみんなそう。物珍しいのも数日だけよ。汚いし、ごみごみしているし——でも、日本人がいるから、まだこの程度で済んでいるの」
車の中の女たちが、それにつられるように笑った。麻子は何も返さなかった。
青島は麻子を歓迎していなかった。
ただ、それをあからさまに言える場所ではなかっただけだ。
麻子が入った宿舎は、日本人居留区の中にある木造の建物だった。引き戸、狭い廊下、畳の匂い。夕食に並ぶ味噌汁や漬物まで、どこか日本の延長にいるような気にさせる。だが、その「慣れた感じ」がかえって息苦しかった。
食卓には、麻子より先に青島へ来た者が何人か座っていた。
夫について来たという若い女が、箸を動かしながら、ここは汚い、雑然としている、それでも日本人が秩序を持ち込んだだけましだ、と何でもない顔で言った。別の女が笑ってそれを受け、麻子が中国語を話せるなら、これからの買い物も道案内も楽だ、「あの連中」と身振りで延々やり合わずに済む、と言った。隅には制服の男が一人いて、酒で顔を赤くしながら、舌のもつれた声で言った。「どうせここは、なんと言ったって占めた土地だ。住んでいるうちに慣れる」
それに合わせるように、誰かが笑った。
誰かが、どの通りが安いとか、どこそこの中国人の仕立屋は腕がいいとか、どの店は日本の客と見るとやけに愛想がよくなるとか、そんな話を始めた。そう話す時の彼らは、もう片づいて、自分たちの暮らしの中へ取り込まれてしまった場所のことを語っているようだった。まるでこの土地は、はじめから自分たちが選び、使い、品定めするためにあるとでも言うように。
麻子はうつむいて、茶碗の飯をゆっくり食べ終え、最後まで一言も返さなかった。
食事が終わったあと、廊下の突き当たりのラジオから軍の戦況報告が流れていた。張りのある声で、勝ち負けと前進と制圧ばかりを告げる声だった。窓の外からは、その裏側でこの町が立てている生活の雑音が小さく混じって聞こえる。二つの音は同じ場所にありながら、まるで別々の世界のもののようだった。
そういう言い方を、麻子ははじめて聞いたわけではなかった。けれど、中国の土地の上でそれを聞いたのは、はじめてだった。
その瞬間、自分はどれか一つの言葉に刺されたのではなく、ただ思い知らされたのだ、と麻子は感じた。来たいと願っていた中国と、いま自分が現に立っている中国——その二つのあいだに横たわっているのは、海でも言葉でもなく、自分にはもう見ないふりのできない現実そのものだった。
夜、麻子は一人で外へ出た。
わざと日本人の多い通りを避け、旧い街のほうへ足を向けた。新しい看板や軍靴にまだ踏み消されていないものを探しに行ったのだ。歩きはじめたばかりの頃、麻子はほとんど子供じみた焦りに駆られていた。あと少し足を運べば、この居心地の悪い表面の下から、書物の中で長年愛してきたあの中国を、もう一度手探りで見つけられるとでもいうように。
まず目に入ったのは、線装本を商う古本屋だった。店先には色の褪せた布の暖簾が下がり、店主は半ば目を細めて、表通りの賑わいなど永遠に気に留めないといった風だった。麻子が店先でしばらく眺めていると、店主が人を探しているのかと訊いた。地方志が見たいのです、と麻子は中国語で答えた。店主の口調は初めのうちは淡々としていて、奥の一山を無造作に指してみせた。けれど麻子がもう一言尋ねた時、その中国語に日本訛りが混じっているのを聞き取って、緩んでいた表情がわずかに引き戻された。
それでも本は見せてくれた。ただ、もう口数は増えなかった。
麻子は古い県志を一冊開いた。紙は触れただけで灰を落とし、ところどころに前の持ち主が残した墨の書き込みが挟まっていた。その斜めに傾いだ文字を見ると、ようやく自分の馴染んだものに手が届いたようで、胸の奥が熱くなった。けれど、この本はどこから入ったのですかと訊こうとした時には、相手はもう別の帳面に目を落としていた。目の前で、静かに戸を引かれたようだった。
麻子はそっと本を戻し、礼を言って外へ出るしかなかった。
しばらく行くと、小さな廟の門口で足が止まった。門は半ば閉ざされ、中の香煙は乏しかったが、庭はきれいに掃き清められていた。一人の老婆が腰をかがめて、落ち葉を壁際へ掃き寄せている。碑文を見たいと思って敷居をまたごうとした時、老婆がちらと目を上げて麻子を見た。咎める目ではない。はっきりした敵意さえなかった。それでも、その軽い一瞥だけで、ここへ軽々しく踏み込んではいけないのだと分かった。麻子は結局、門の外に立ったまま中を二、三度覗き、それから後ずさった。
門が開いていることと、入ってよいことは同じではないのだ——麻子ははじめてそう知った。
さらに進むと、青煉瓦の目地に草の生えた半ば旧びた廟があり、敷居は人の出入りで磨かれて光っていた。路地の奥には、誰もいない芝居台が一つ。木の柱には古びた赤い布が巻きつき、賑わいの去ったあとまだ冷めきれずにいる夢のようだった。
そういうものが現れて、はじめて麻子の胸につかえていたものが、ようやく少しほどけた。
これだ、と麻子は思った。
自分が見たかった中国は、こういうものの側にある。
だが、その「近づけた」という感覚も、手放しで喜べるものではなかった。
麻子は路地の小さな店で、ワンタンの屋台の場所を中国語で尋ねた。店の主人は最初は気さくに答えたが、麻子の発音に日本訛りが混じっているとわかると、目の色を少しだけ変えた。答えが短くなり、隣の卓で話していた男たちも口を閉じた。麻子が礼を言って店を離れ、少し歩いてから、後ろで声がまた繋がった。
振り返らなかった。
けれど、自分は何もしていないのに、人のくつろぎを止めてしまったのだということは、よくわかった。
さらに細い路地へ入ると、灯の下で糖人を作っている老人がいた。細い銅匙から垂れる飴が、石板の上で一羽の鳥の形になる。麻子が立ち止まって見ていると、老人は顔を上げて「一ついるかい」と訊いた。麻子が首を振ると、老人は「見るだけでもいいさ。こういう古いものを好く人は減った」と笑った。
麻子もつられて少し笑った。
だが老人は、すぐにもう一言だけ足した。
「もっとも、好きでも、それだけじゃ足りないがね」
それが誰に向けられた言葉なのか、老人自身も意識していなかったかもしれない。けれど麻子には、その一言が胸のまん中に落ちた。中国を好きだという気持ち、古いものに惹かれる気持ち、それ自体は嘘ではない。だが、それだけでこの土地に立つ資格が生まれるわけではないのだ。
麻子はそのまま歩きつづけ、やがて海辺まで出た。
夜の色がすでに垂れこめ、港のほうにはまだ灯火がぼんやりと見えた。海から吹いてくる風は湿って冷たく、塩の匂いを含んで、麻子の裾を絶えず脚に打ちつけた。黒く光る一面の水を眺めているうち、ふと出発前の船の上の自分を思い出した。あの頃は、この道がどれほど険しくても、中国へ通じる道なのだと、ただそう信じていた。けれど本当にここまで来てみて、麻子はようやく気づいた。最初に突き当たったのは、歴史でも古跡でもなく、自分がどちら側に立つ人間なのかという、その一点だったのだと。
その夜、麻子はなかなか眠れなかった。
小さな灯の下で手帳を開き、ゆっくりと一行だけ書いた。
「中国へ来たのは歴史に近づくためだったのに、私が口を開くと、相手が最初に聞くのは占領する側の声だ」
書いてから、長いあいだ筆を置いたまま動けなかった。
外では時おりトラックの音がし、さらに遠くでは海風が鉄板を鳴らしていた。街は眠っているようで、どこか眠っていない。麻子は狭い寝台に横になり、天井を見ながら、はじめて自分に正直な言葉を認めた。
好きだという気持ちだけでは、その土地に立つ資格にはならない。
中国での最初の夜、麻子は古跡の夢も、兄の夢も見なかった。
ただ、これから自分が追うことになるのは歴史だけではなく、自分の背後にある日本の、見たくない部分でもあるのだと、暗闇の中で少しずつ理解していった。