第二十六章 散り散り
結局、三人は当初のつもり通りには動けなかった。
それから二日もしないうちに、街の空気がさらに張りつめた。学校は日本人教師を呼び集め、勝手に区域外へ出ることを禁じた。郊外へ親類を訪ねるだけでも届けが要る。通りには検問の兵が増え、駅と埠頭の前に立つ男たちの顔も、日に日に硬くなっていった。祖母が鍛冶場へ顔を出した時、炉のそばには新しく運び込まれた鉄材が積み上がり、劉三祭の表情も鉄そのものみたいに重かった。
「軍の仕事だ」
彼は短く言った。
「急ぎで回ってきた。断れる種類じゃない」
ようやく確保しかけていた隙間が、大きなものに少しずつ押し潰されているのが祖母には分かった。
その晩、老人は激しく咳き込んだ。
もともと歳を取っていたうえ、ここ数日、夜更けまで帳面を繰り続けていた。気色が落ちると、人は急に中身から抜けていくように見える。それでも老人は最後まで手を止めなかった。残りの抄本を改めて整え、一半を息子へ、一半を祖母の手で写させる。夜も更け、油灯の底が見え始めた頃、老人は紙の上へ手を置いたまま言った。
「もしこの先、本当に歩けなくなったら、これだけは一つ所に置いておくな」
劉三祭が顔を上げる。
「父さん」
「口を挟むな」
老人の息は浅かったが、眼だけは妙に澄んでいた。
「私はずっと、引き延ばせるだけ引き延ばそうとしてきた。だが、ここまで来ると分かる。引き延ばしても消えん。なら、後ろへ残る形にしておくしかない」
やり方は単純だった。
路の半分は劉家へ残す。
残りの半分は祖母が持ち帰る。
どちらか一方が切れても、もう一方がいれば、これが後人の作り話ではなかったと証せる。だが片側だけでは、門を認めるところまでは行けない。どちらか一つの家だけで最後まで開けないようにするためでもあった。
祖母はその話を聞きながら、胸の中がすっと冷えた。
「まるで遺言みたいです」
老人は祖母を見て、かすかに笑った。
「門を守る者に、遺言のいらぬ者がいるか」
部屋はしばらく沈黙した。
そして三日目に、本当に人を引き裂く知らせが来た。
学校が、数人の日本人女教師を別の場所へ移すと決めたのである。情勢不穏のため、まず安全な区域へ動かす、とだけ書いてあった。名簿の中に祖母の名もあった。祖母は職員室でその紙を受け取り、しばらく何も言えなかった。すぐ日本へ送還、と明記されているわけではない。けれど一度この流れに乗せられたら、残りたいという意志だけで踏みとどまれる段階ではないことくらい、すぐ分かった。
その夜、祖母は急いで劉家へ向かった。
鍛冶場の火はまだ生きていた。劉三祭は最後の鉄を打っている最中で、祖母の姿を見たところで、鎚の動きがはっきり止まった。鉗子を置き、近づいてくる。
「何かあったのか」
祖母は通知の紙を渡した。
読み終えた劉三祭は、しばらく顔色ひとつ変えなかった。やがて紙を返し、ぽつりと言った。
「駅まで送る」
祖母はそこで頷かなかった。
「それを言いに来たんじゃない」
彼の目を見て言う。
「もし私が本当に行かされるなら、その先をあなたはまだ辿る?」
炉の火が二人のあいだで細かく鳴る。
劉三祭はしばらく火を見ていたが、やがて低く返した。
「ここまで聞かされて、今さら何も聞かなかったふりができると思うか」
その言い方に、祖母はかえって言葉を失った。
「じゃあ、一緒に出て」
祖母は言った。
「今はここを離れるしかなくても、そのあとで折れて路へ戻るやり方はあるかもしれない」
劉三祭は首を振る。
「無理だ。親父はあの調子だし、鍛冶場も見張られてる。今俺が消えたら、路を探しに行くんじゃない。ここにいる連中ごと潰される」
あまりに現実的な言葉で、祖母はすぐには押し返せなかった。
人と人のあいだでいちばん越え難いものは、思いの有無ではない。思いを形にする余地を、時代がまるごと奪っていくことなのだと、祖母はそこで初めて骨身にしみて悟った。
「なら、戻ったあとで探しに来る」
ようやく言うと、劉三祭は長いあいだ祖母を見た。
目に激しさはない。怒りもない。ただ、先に答えを知っている人間の静けさがあった。
「帰って来られたら、その時また言え」
ひどく軽い調子だった。
けれど、その軽さがいちばん堪えた。信じていないわけではない。ただ、こういう年月には、「また来る」という言葉だけで繋がる路などないと、彼のほうが先に分かっていた。
出立の前に、老人は薄い布包みを祖母へ渡した。
中には祖母が写した半分の抄本と、さらに細い紙片が一枚。そこには、ただ一言だけ記されていた。
副座不為蔵、乃為証。
「これだけは忘れるな」
老人は言う。
「誰かが、それを自分の家の物として抱え込もうとした時、路はまた壊れる」
祖母は黙って頷き、布を強く握った。
翌朝、まだ空が完全には明るくならないうちに、人の列が埠頭へ向かい始めた。空気は冷たく、風には灰が混じっていた。劉三祭は最後に足を止められる角まで付き添ったが、それより先へは行けない。
二人とも、必要以上には何も言わなかった。
言葉を重ねたところで、それが約束の代わりにならないと知っていたからだ。
祖母は最後に、自分のノートの末尾を一枚だけ破って彼へ渡した。そこには、この数日のあいだにまとめた半分の暗路と、自分なりの判断が書き込まれていた。紙の角には、何度も折って開いた痕が残っている。
「持っていて」
祖母が言う。
「全部を信じなくていい。でも捨てないで」
劉三祭は受け取り、紙の縁で指を止めた。
「そっちもな」
祖母は「戻る」と言いかけて飲み込んだ。
ここまで来ると、重い約束とは口に出された言葉ではなく、果たせないかもしれないと分かっていながら、それでも後ろへ渡していくもののことだと分かる。
結局、祖母は黙って頷き、人の流れに混ざって歩き出した。
ずいぶん離れてから一度だけ振り返る。
劉三祭はまだ同じ場所に立っていた。肩と背は真っ直ぐで、火に焼かれてから冷えた鉄のようだった。人影と霧に少しずつ遠ざけられ、最後は暗い色の一点になる。
その時、祖母にははっきり分かった。
路はもう、きれいに一本ではない。
半分は東へ戻る自分の手にあり、もう半分は中国へ残る。
そういう形でしか、あの先は生き残れないのだと。