第二十四章 暗号
「銘文は路だ」と分かってから、家の中の空気はすっかり変わった。
老人はもう、祖母を古い字にかじりつく日本の娘としては扱わなかった。肝心なところで言葉を断ち切ることも減った。かといって、急に話しやすくなったわけではない。むしろ逆だった。次の数日、老人は家中にある古い紙をほとんど全部引っぱり出した。竹簡、家書、帳面、炕の筵の下に差し込まれていた控え、そして鍛冶場の商い帳まで。一見すると鉄の出入りしか書いていないようなものまで、片端から部屋へ運び込まれた。
劉三祭は最初、露骨に嫌がった。
「自分で自分に面倒を増やしてるだけじゃないか」
そう言っては、炉のほうへ戻ろうとする。
老人は顔も上げずに返した。
「出さなければ、無くなるとでも思うか」
その言葉に詰まり、劉三祭は半日ほど鍛冶場で金槌を振るった。だが、その日の火は落ち着かず、鎚の音にもいつもの芯がなかった。農具の修理に来た客にまで、上の空なのが伝わっていたくらいだ。結局、夕方になると戻ってきた。戸をくぐったところで、祖母が炕の卓に伏して、老人のために帳面の写しを取っているのを見つけ、さらに眉を寄せた。
「本気で付き合う気か」
祖母は刺のある言い方を受け流し、帳面を一枚、彼のほうへ滑らせた。
「これを見てください」
劉三祭は最初、見る気がなかった。けれど視線だけ落として、結局は紙に手を伸ばした。そこに並んでいるのは、ごく普通の品目ばかりだ。鉄棒、鋲、鍋耳、鋤の刃、船釘、皮袋、年月。だが祖母はその何行かを指で示した。
「同じ品目が、何度も出てきます。でも並びが変です。ただの売り帳なら、こうは書かない」
劉三祭はもう一度じっと見た。
最初は確かに、ただの商い帳にしか見えない。けれどよく追うと、三行ごとに、そこへあるべきではない字が紛れている。「北折」「石門」「江低三尺」。一つずつでは意味をなさないのに、同じ年の帳面を数冊つなげると、別の線が浮いてくる。
「隠し見出しじゃない」
祖母が低く言った。
「帳面を借りて、言葉だけ通している」
老人がそこでようやく頷いた。
「後の代は、家書に直接書けなくなった。それで鍛冶場の帳面を使った。字を知っていても、ただの帳簿だと思えば煩いだけだ。だが知っている者が行ごとに抜けば、どの水筋か、どの石場か、どの時期に向きを取るかが見えてくる」
劉三祭は紙を握る指に力を入れた。
「じゃあ、あんたはずっと知ってたのか。路が完全には切れてないことを」
「少し残っているのは知っていた」
老人は平然と言う。
「だが少し残っていることと、それで最後まで辿れることは別だ」
祖母は数枚の帳面を重ね、供物台の摺図と照らし合わせた。散っていた言葉が少しずつ一筋の線になる。銘文の向きと、龍首の位置と、浅い刻みと合わせると、その路は青島や山東の近辺では終わらなかった。水勢を追い、さらに西南へ引かれ、最後は長江流域のどこか、わざと輪郭を曖昧にしたような岸へ収束していく。
「遠すぎる」
祖母が言う。
「近いわけがない」
老人は返した。
「近ければ、とっくに掘り返されている」
しばらくの沈黙のあと、劉三祭が急にきつい声を出した。
「掘り返されて、それで何だ。俺はやっぱり同じことを言う。見つかったからって福とは限らない。親父は年を取ってるし、あんたは日本人だ。こんな時世に長江のほうまで行こうなんて、途中で命を落としてもおかしくない」
言葉は前より硬かった。だが底にあるものは違った。
嫌だからではない。
怖いのだ。
祖母はそれを聞き分けた。すぐに言い返さず、ただ問うた。
「あなたは?」
「何が」
「怖いのは分かります。でも、この先の半分を、一生知らないままでいられますか」
劉三祭は口を開きかけて、言葉を失った。
戸の隙間から入る風で、灯が細く揺れる。その揺れの中で、祖母は初めて、彼の顔から怒りが少し剥がれたのを見た。もともと彼は、何かを背負うために生まれてきた男ではない。鍛冶場を守り、食って、寝て、暮らしていければよかった。それでも一度門の中を見てしまった以上、何も聞かなかった頃へは戻れない。
「一緒に行く」
そう言ったのは、祖母ではなく劉三祭のほうだった。
老人が顔を上げる。
「考えたのか」
「考えきれてない」
劉三祭は不機嫌そうに答えた。
「でも、親父一人と、日本人の女一人にこの路を辿らせるわけにいかない。物は劉家のもので、路も劉家のものだ。二人だけで動かれて、あとで何も知らなかったことにされるほうが、よっぽど眠れん」
美しい決意ではなかった。
だからこそ、本当に聞こえた。
祖母は帳面を重ね直しながらも、気持ちまでは軽くならなかった。劉三祭は今、この一歩で、ただの日々をただの日々として過ごす余地を失おうとしている。それは彼にも分かっていたはずだ。
二、三日かけて線をさらに詰め、旅費や通行の手段も考えるつもりでいた。だが、その余裕は翌朝のうちに崩れた。
祖母の勤め先が、急に日本人教師全員へ出入りの記録を求め始めたのである。青島の外へ出るには許可が要る、と。街にも検問の兵が増え、駅と埠頭の空気はここ数日で別物になった。前線のせいだという噂もあれば、地方で何かあったとも言われたが、本当のところは誰も知らない。
夕方、街へ出ていた劉三祭が戻ってきた時の顔色は最悪だった。
「鍛冶場まで登録された」
そう吐き捨てる。
「これからは軍の注文を優先しろ、鉄も申告しろってさ。このままじゃ外へ出るどころか、街で半日足を止めても目を付けられる」
その言葉で、部屋の時間は一気に狭まった。
祖母は、まだ片づけていない帳面の山を見た。つい昨日まで、ゆっくりと読み合わせ、つなぎ合わせていけばよかった路が、急に細い裂け目に縮んでいく。
残された猶予は、もうほとんどなかった。