第十七章 果たされぬ約
祖母はそこまで話すと、ようやく口を閉じた。
地下室はしんと静まり返っていた。遠くの車の音と、自分の呼吸ばかりがやけに大きく聞こえる。古い鉄の箱は開いたままで、供物台は僕たちのあいだに置かれている。脇には古びた布に包まれた冊子。斜めに差し込む光の中で、埃がゆっくり回っていた。何十年も触れられなかった時間そのものが、そこに漂っているようだった。
僕はさっきまで、ただ話の大きさに呑まれていた。
けれど今は違った。
これはもう、祖母が若い頃に何を見たかという話だけではない。誰かが古い勘定書を僕の手に押しつけてきて、その中にはうちの家の名も書いてあるのだと告げられたような気分だった。
「待って」
自分の声が少し掠れた。
「じゃあ、うちにある供物台って、ただの友誼の印なんかじゃなくて、あとから字を変え、来歴まで変えたうえで松平家に残ったものかもしれないってこと?」
祖母はすぐには答えなかった。
その短い沈黙のほうが、どんな肯定より重かった。
「わからないよ」
やがて祖母は言った。
「若い頃の私は、銅鼎さえ見つかれば、あとは物が勝手に喋ってくれると思っていた。けれどね、物が見つかっても、人が認めるとは限らないんだよ」
祖母は供物台の縁に残る、僕がそれまで気にも留めていなかった磨滅の跡を、指先でそっとなぞった。
「松平家にどうしてこれがあるのか、私は知らない。贈られたのか、渡されたのか、奪ったのか、それとも何かを守るために、わざと字も話も変えて伝えたのか……それもわからない」祖母は顔を上げた。「ただ一つ、これを罪のない古道具として扱ってはいけない、それだけは分かる」
背筋に冷たいものが走った。
僕はこれまで、家の来歴なんて大して重いものだと思ったことがない。誰がいつ移り住んだとか、誰がいつ成功したとか、誰がいつ亡くなったとか、その程度のものだと思っていた。けれど今、祖母は別のものを差し出している。うちの家に残っているのは栄光ではなく、書き換えかもしれない。記念ではなく、覆い隠しなのかもしれない。
「劉さんには、そのあと会えなかったの」
僕が訊くと、祖母はゆっくり首を振った。
「会えなかった」
声はとても軽かった。壊れやすいものの上に置く手みたいに。
「私は、あのまま中国に残るつもりだった。劉さん親子と、店のことや手元の手掛かりを整理したら、家書の暗号を辿って銅鼎を探しに行くつもりでいた。けれど、その前に時勢のほうが変わってしまった」
その先を祖母は細かく語らなかった。
けれど僕には十分だった。戦況は悪化し、身分の締め付けは厳しくなり、日本人が中国で思い通りに動ける時代ではなくなっていったのだろう。
「無理やり帰されたの」
「そうだね」祖母は言った。「でも、私自身も一歩退いたんだよ」
そこで祖母は、ほんのわずかに笑った。疲れの深く染みこんだ笑いだった。
「人はよく自分を騙す。いま手放すのは失うことじゃない、少し先へ延ばすだけだってね。あの時の私は、いったん日本へ戻って、戦が終わって、また道が開けたら探しに行けると思っていた」
祖母は少し黙った。
「でも、あとになって分かった。あれは先送りじゃなかったんだ。取り落としたんだよ」
僕は黙って祖母の横顔を見た。
この箱を何十年も仕舞ってきた理由が、少し分かる気がした。祖母が抱えていたのは証拠だけではない。埋めきれなかった悔いもまた、この箱の中にあったのだ。真相に手が届きかけて、劉家の父子にも手が届きかけて、人生の向きを変えるかもしれなかった一歩のところまで行って、それでも時代と躊躇の両方に押し戻された。その埋め合わせのつかなさが、祖母の中にはずっと残っていた。
「それで今、僕にこれを話したのは」
僕は喉の渇きを覚えながら言った。
「銅鼎を見つけてほしいから?」
「銅鼎だけじゃない」
祖母はそう言って、例の冊子を僕に差し出した。受け取ると、思った以上に重かった。古びた表紙の紙は端が脆くなり、題字は半分ほどしか読めない。
「本当に先へ行くなら、最初に探すのは宝じゃない。人だよ」
「劉家の人たち?」
「そう」
祖母は頷いた。
「もしあの一脈がまだどこかに続いているなら、この先をどうするか決める資格は、私たちより先にあちらにある。松平の家はこの供物台を長く持ちすぎた。長く持ちすぎたせいで、私たちだけで勝手に語っていい言葉が、もうずいぶん減ってしまった」
僕は冊子を見下ろしたまま、気づくと訊いていた。
「もし最後に、松平家が見苦しいことをしていたって分かったら?」
祖母は目を逸らさなかった。
「認めるしかない」
その言い方は驚くほど静かで、そして厳しかった。
「歴史は後の者に栄えだけを残すわけじゃない。負い目も残す。字を変え、話を変え、何代も挟んだからといって、消えるものじゃない。もしお前が、綺麗で浪漫的な答えだけを期待しているなら、この先へは行かないほうがいい」
祖母はそこで言葉を区切り、僕をまっすぐ見た。
「それに、中国が好きだとか、歴史に惹かれるとか、それだけで松平の手が綺麗になるわけでもないし、お前が誰かの代わりに語る資格が生まれるわけでもない。探すなら、そのことも一緒に背負って行きな」
地下室はまた静かになった。
これは、軽い気持ちで頷いていい頼まれごとではない。祖母の心残りを代わりに叶える、というだけならまだ単純だった。けれど今、僕の手に渡されたのは、松平家を内側からひっくり返すかもしれない問いそのものだった。友誼の話へ繋がるかもしれないし、掠奪や隠蔽や負い目へ繋がるのかもしれない。
いまここで冊子を置いて、これはもう昔の話だ、自分には関係ないと言うこともできる。
けれど、指はもう表紙の端を押さえていた。
祖母が若い頃にたった一人で中国へ渡ったこと。劉家の父子の前まで辿り着いたこと。そのあと長い年月、この箱を抱えたまま何も言わずにいたこと。その重さを前にして、無関係という言葉だけは、どうしても使えなかった。
「おばあちゃん」
僕はようやく言った。
「僕は、宝探しがしたいわけじゃない」
祖母は何も言わず、続きを待った。
「必ず見つけられるとも言えない。でも、もし本当に劉家の人がどこかにいて、松平が何かを負っているなら、少なくとも、もう見ないふりはしたくない。話を、もう一度ちゃんと通る形に戻したい」
祖母の目の奥で、もう薄くなっていた光がかすかに揺れた。
祖母は手を伸ばし、僕の手を握った。
紙のように薄くなった皮膚の下で、骨はまだ驚くほど固かった。若い頃から一度も本当に折れたことのない人の手だった。
「一つだけ、覚えておきな」
「何を?」
「これを、お前一人の英雄譚にするな」
祖母の声は低かった。
「歴史を探す時は、まず歴史の中に人がいることを忘れるな。劉家の人も、松平の人間も、赤壁の前後で死んだ者たちも、みんな人だ。お前が探しに行くのは伝説じゃない。伝説に押し潰されたあとに残る、人の真実だよ」
僕はゆっくり頷いた。
祖母はその手を離し、今度は供物台を僕のほうへ押した。
「持っていきな」
「いいの」
「ずっと私の手元に置いていたのは、惜しかったからじゃない。これを受け取っても、宝物扱いしない人間を待っていただけだよ」
僕は両腕で供物台を抱えた。
思っていたよりずっと重かった。
木と金属と歳月が詰まっているだけではない、もっと別の冷たさがそこにあった。抱いているのは器物ではなく、長いこと埋もれていた話そのもののようだった。
祖母は古い鉄箱に目を戻したまま、遠くを見るような声で言った。
「若い頃の私は、真実を探すっていうのは前へ進むことだと思っていた。でも、あとになって分かった。真実は、時々、振り向く形でしか見えない。自分がどこから来たのか、自分の家が何を残して、何を削ったのか。そのほうを見直すことなんだよ」
僕は何も言わなかった。
ただ、もう分かっていた。
この供物台を抱き上げた瞬間から、これはもう祖母の昔話ではない。僕の手の中に一本の線が渡されたのだ。
その線の先が、中国のどこかの江の岸なのか、古い家なのか、まだ見つかっていない誰かなのかは分からない。
けれど、いつか僕はその切れた先を、もう一度繋ぎに行かなければならない。