第十六章 龍亀の銅鼎
「劉備は、約を守った」
老人は次の竹簡を開きながら、そう言った。
赤壁の後、曹操はたしかに劉備へ国運を賭けた大規模な南征を仕掛けなかった。国境での小競り合いはあった。だが、あれは赤壁以前のように一口で呑み込もうとする攻めではない。
そして劉備の側もまた、荊州を立て直し、のちに益州を得て勢力を大きくしていきながら、龍亀の銅鼎を戦場へ戻すことはしなかった。
「使わなかったのではない。使えなかったのだ」
老人の言葉には重みがあった。
一度でも再び鼎を開けば、華容道でかろうじて引かれた線は消える。約は約でなくなり、赤壁の勝ち方そのものが、ただの手段に落ちる。
家書によれば、劉備は信の置ける者たちと諸葛亮を使い、鼎を密かに封じた。中の石を戻し、蓋を閉じ、鉛で継ぎ目を塞ぎ、長江流域のどこか人知れぬ場所へ運ぶ。地中深く埋め、上を石と土で覆い、地表には事情を知る者にしか分からぬ印だけを残した。
「だから、劉家の手元には祭台だけが残ったのですね」
祖母が言う。
「そうだ。祭台は鍵であり、目印でもある。本体はとうに土の下だ」
劉は長いあいだ黙っていたが、やがてぽつりと漏らした。
「なら、もうそのまま朽ちさせておけばいいじゃないか。封じたのなら、永遠に眠らせておけば」
老人は顔を上げる。
「封じたことと、終わったことは違う」
劉は口を結んだ。
「忘れた者がいれば、いつかまた触れる。しかも封じた場所を知る手がかりは、完全に消えたわけではない。我が家が守ってきたのは、場所へ近づく線と、そこへ近づいてはならぬという戒めの両方だ」
祖母はそこで核心に触れる問いを投げた。
「あなたたちが守ってきたのは、『探し出すこと』ですか。それとも『ほかの誰かに先に見つけさせないこと』ですか」
老人は祖母を見た。その目に、初めて微かな評価の色が浮かぶ。
「両方だ」
その答えは、祖母の胸をさらに重くした。
考古学であり、発見であり、埋もれた歴史の発掘だと、どこかで美しく考えていたものが、急に別の顔を見せ始めたからだ。これは遺物探しではない。時間と人心と、まだ見えぬ利用者との競争なのだ。
劉もまた、それを感じ取っていた。
「そんな話を今ここであんたに聞かせたってことは」彼は祖母を見ずに言った。「俺たちまで中に引きずり込んだのと同じだ」
「引きずり込んだのではない」老人は答える。「この娘が、自分の足でここまで来た」
それから祖母へ向き直る。
「今ならまだ退ける。ここまで聞けば、一生のあいだ中国の旧家に伝わる怪談として抱えて帰ることもできる。学問の題材として胸の内だけで温めることもできる。だが本当に先へ行くなら、碑文を読み、古字を写すだけでは済まぬ」
祖母は黙って聞いていた。
老人はさらに言う。
「お前は日本人だ。しかも今はこういう時代だ。この国に留まって何かを探るということが、ただ知を求める行為で済むと思うな。一歩誤れば、まず潰されるのは学問ではない。人だ」
部屋は静まり返った。
そこで意外にも、劉が祖母に向かって口を開いた。
それまで父に反発することはあっても、祖母へ正面から本音を言うのは初めてだった。
「やめろ」
祖母が顔を上げる。
「俺だって知りたい。知りたくてたまらない。だが、今日ほんの少し聞いただけで、もう息が詰まりそうなんだ。もしあの石が本当にまだどこかにあるなら、見つけることが救いになるとは思えない。ましてあんたは、日本人で、女で、一人だ。調べ始めたら、先に辿り着くのが劉家の人間なのか、軍なのか、それとも別の誰かなのか、分かったものじゃない」
祖母はすぐには言い返さなかった。
それが正論だと分かっていたからだ。
知りたい、という熱だけでここまで来た。だが今、はっきりと代価が目の前に置かれている。ここに残るとは、歴史を追うこと以上のものを引き受けることだ。帰れなくなるかもしれない。自分だけでなく、この父子まで危うくするかもしれない。
それでも、頭から離れない像があった。
松平家の客間にあった供物台。
削られた跡。
別の字があったはずの場所に、無理に刻まれた「松平」。
もし今ここで日本へ戻り、あれをただの古い置物として見続けることができるだろうか。自分の家の名を、そのまま受け入れて生きていけるだろうか。
「帰っても、私はもう穏やかには暮らせません」
祖母は静かに言った。
劉が目を見開く。
「あなたたち劉家が背負ってきたのは、『守る』ことです。けれど松平家が背負ってきたのは、おそらく『書き換える』ことです。片方は何代も守り、もう片方は字を削り、自分の姓を刻み直した。そこに何もなかったとは、とても思えません」
老人の目が鋭くなった。
だが否定はしなかった。
劉はそこでようやく理解し始めた。祖母が追っているのは、劉家の秘宝だけではない。自分の家の古傷でもあるのだ。
祖母は続ける。
「私は鼎を掘り出して、また使いたいわけではありません。むしろ逆です。あれが何で、どこにあり、どうしてここまで来たのかを知らなければ、劉家も松平家も、この話をこれから先ずっと歪めて伝えるだけになる」
老人は長く黙っていた。
やがて、ゆっくり頷いた。
「学ぶ者の言葉だな。だが学ぶ者は、いつも生き残れるとは限らん」
「承知しています」
「本当にか」
「本当にです。それでも、私は残って調べます」
劉は思わず言った。
「正気か」
祖母は穏やかな目で彼を見た。
「そうかもしれません。でも、一度知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れません。あなたも、同じでしょう」
その一言は、劉の胸にまっすぐ刺さった。
炕の暗格が開いた瞬間から、自分ももう、鍛冶屋に戻って酒を飲んで寝るだけの男ではいられない。そのことを、彼自身もどこかで悟っていたからだ。
その時、窓の隙間から風が入った。灯の火が揺れ、祖母の髪が頬にかかる。祖母はそれを耳の後ろへ払った、その何気ない仕草のなかで、ふいに胸の奥で何かが繋がる感覚を覚えた。
風。
中学の物理の授業で見た、ごく単純な実験が脳裏に蘇る。気体は圧の高い側から低い側へ流れる。もし、あの石が火に触れた時に、周囲の空気の状態を一瞬で大きく変えられるのだとしたら――。
祖母の心臓が速く打ち始めた。
「分かりかけてきました」
「何がだ」
劉が問う。
祖母は祭台と竹簡を見たまま答えた。
「あの東南風です。鬼神の術ではなく、物の性質として説明できるかもしれない。水に触れれば毒となり、火に触れれば風を変える。しかもその二つが別々の奇跡ではなく、同じ石の性質の裏表だとしたら」
祖母は言葉を探るように、ゆっくり続けた。
「火に触れた瞬間、周囲の空気の温度や圧が局所的に激しく変われば、風向きが崩れて逆転してもおかしくありません。水に触れた時だけ別の強い作用を見せるなら、営中に広がった病も、まったくの作り話とは言い切れなくなる」
老人は祖母を見つめた。
「そこまで考え始めたら、もう退けんな」
祖母は頷いた。
「はい。退きません」
その言葉のあと、三人はしばらく黙っていた。
劉はゆっくりと腰を下ろした。賛成したわけではない。だが、もう止めることもしなかった。
老人は竹簡の上に手を置いた。その顔には、長く途切れかけていた線が、ようやく別の手に渡るのを見た者の静かな疲れがあった。
その夜、祖母が中国に残ると決めた理由は、もはや中国という土地への憧れだけではなかった。考古学への情熱だけでもない。
松平家と劉家のあいだで、長く断たれたままになっている一本の線を、自分の手で辿り直さなければならない。
そう信じたからだった。