第十五章 華容道の秘密
華容道の泥は深かった、と家書は記している。
雨上がりの細道に敗兵と馬が踏み込んで、道は粥のように崩れていた。曹操が辿り着いた時には、もはや「敗走」というより、崩れながら流れてくる残り滓のようだった。
その先を、関羽が塞いでいた。
青龍偃月刀が路口を横切り、数千の兵が背後に並ぶ。前へ出ても死、退いても死。そこまで追い詰められて、曹操はかえって落ち着いた。
「慌てても道が開くわけではないからな」
老人の言葉は淡々としていた。
家書では、曹操が関羽に最初に投げたのは命乞いではない。
「もし営中にあの怪病がなかったなら、勝負はやはりこうなっていたか」
そう問うたとある。
劉が思わず眉を上げた。
「そんな時まで、それを気にするのか」
「英雄が堪え難いのは死そのものではない。死ぬ理由が分からぬことだ」
老人が言う。
関羽はすぐには答えなかった。
曹操が訊いているのは、負けた事実ではない。なぜ負けたのかだ。赤壁で曹軍が交戦前に崩れ、冬の江で風向きまで変わった、その根の部分だ。そして関羽は、それを知っていた。
「諸葛亮から聞いたのですか」
祖母が問う。
「そこは書かれておらん。ただ、関羽が知っていたことだけが記されている」
だが、知ったことで関羽の心はかえって重くなった、と家書は言う。
やがて関羽は曹操に明かす。
赤壁は周瑜の火だけで決したのではない。曹営を先に崩したのは、龍亀の銅鼎と、その内に封じられた石である。水に触れれば毒を生じ、人を病ませる。火に触れれば風雲を乱し、風向きを変える。曹軍を襲った病も、あの東南風も、その働きによるものであったと。
部屋に沈黙が落ちた。
数呼吸ののち、祖母が口を開いた。先ほどより声は低いが、むしろ強かった。
「それは……奇策ではありません」
老人が顔を上げる。
祖母は退かなかった。
「もし本当にそうなら、それは虐殺です。戦場で斬り結んで倒したのではない。相手が何に殺されるのかも知らぬまま、病ませて死なせたのです」
劉も息を詰めて父と祖母を見た。自分も同じ引っかかりを抱えていたが、口にできずにいた。それを祖母が先に言葉にしたのだ。
「そうだ」劉も低く言った。「そんな勝ち方を知れば、関羽だって、曹操だって、平気ではいられまい」
老人はそこで卓を軽く打った。怒鳴りはしないが、声音は深く沈む。
「わしとて、この勝ち方が美しいと思っておるわけではない。だが後から『汚い』と言うのは容易い。赤壁のあの時、江辺に立っていた者たちにとっては、生き残る道があるかどうかが先だった。十万で五十万に当たるのだ。これを使わねば、死ぬのは孫劉の十万だ。その命は軽いのか」
祖母はすぐには返せなかった。
反駁しきれないと分かっていたからだ。
だからこそ、この話は重い。英雄は白か黒かに分かれていたのではない。同じ戦の中で、生き延びるために手を汚したのだ。
老人の声が少し和らいだ。
「家書にもある。関羽も、この勝ちは胸を張れるものではないと思っていた」
関羽が迷ったのは、曹操の恩だけが理由ではなかった。曹操は敵であり、いつか討たれるべき相手であっても、少なくとも関羽の目には、刀と刀のあいだで雌雄を決するに値する男だった。見えぬ病と風で倒すべき獲物ではなかった。
「だからこそ、華容道であの話し合いが行われたのですね」
祖母が言うと、老人は頷いた。
家書によれば、関羽と曹操は馬を寄せ合い、声を潜めて言葉を交わした。周囲の兵には聞こえない距離で。そこに何が交わされたかを、証人は残せなかった。ただ劉家の先祖が伝えた大意だけが残っている。
劉備は、龍亀の銅鼎を永く封じ、二度と戦に用いぬ。
曹操は、生ある限り、国を挙げて南へ大軍を差し向けぬ。
そういう約であった。
「曹操は、それを呑んだのですか」
劉が訊く。
「呑むほかなかった。呑まねば、その場を生きて出られぬ。たとえ生き延びても、以後は劉備が再び鼎を開くことを恐れ続けねばならん」
祖母は静かに補う。
「でも、ただ命惜しさだけでは、その後ずっと守り続ける理由にはなりません」
老人は僅かに目を細めた。
「その通りだ」
もし単に生き延びたいだけなら、曹操ほどの男が後年までその約を骨のように抱え続けはしない。関羽は赤壁の真相を告げることで、曹操に「何に敗れたか」を与えた。みじめに死なせず、恥だけを押し付けてもいない。それは敵への最後の敬意でもあった。
「だから正史は『義』とだけ書いた」
祖母の呟きに、老人は答える。
「義と書くほかなかったのだ。だが曹操を通したのは、義だけではない。約もあった」
部屋は再び静まり返った。
華容道は、恩を返した一場面ではなくなっていた。三国の流れそのものが、最も汚れ、最も危うい場所で、二人の男によって縫い留められた瞬間になっていた。
「その後は」
劉がようやく訊く。
「その後は、劉備が約を守るかどうかだ」
老人は竹簡を次へと送った。
「そしてそこから先が、我が家が本当に守ってきたものになる」